暇と無駄【前編】
俺のプロフィール欄に記載されているこの2つ。
今回は『俺が嫌いな』暇と無駄について語るとしよう。
さて、始める前に、さっそく脱線した話になるが、このように自分の事を自身で語るのは乙なものだけれど、客観的に見た「美影ルクス」というものを知ることも楽しいので、暇な物好きはぜひWikiだとかを作成して書き綴ってみてほしい。報告してくれれば勿論すぐ確認する。(ニコニコ大百科の更新も密かに待っている。)
では本題へ。
『俺が嫌いな』暇。
わりと勘違いされやすいが、暇が嫌いと言っても、俺は別に無が嫌いなわけではない。
少し違った言い方をすると、「しないこと」が嫌いなのであって「することがない」は嫌いではないのである。
しかし、これは専ら個人の考えであるが、人生において、まったく純粋な「することがない」ことはないことだと思っている。
「することがない」は怠慢で、そこらに転がっているあらゆる事象をないものとして認識し、掴む努力をしていないから起こり得る現象だ。
よって、これは過ごし方のある一定においてのみ当て嵌まるが、純粋な「することがない」は存在しないので、上記の「無が嫌いなわけではない」という文は俺個人の中で矛盾することになる。
では、なぜ書いたのか。
それは他の分野において「無」というものが好きだからだ。
「無」というものは一つの「有」であり、「無い」ということが「有る」というものを生み出す。
日本の文化においてそれは特に顕著で、余白をいかに使いこなせるか、のような芸術を目にすることも多い。
別の言い方をすれば「空間を使う」ということだろうか。
これは音楽においても同じことで、まったく休符のない曲はどこか物足りなく感じる。
これを満たすには無くすことが必要で、その物足りなさを足りなくすることによって埋めるのだ。
ここまであたかも有識者のように語ってはきたが、俺も学がある方ではないので、正しいことを述べられているかはわからない。
詳しく知りたいという方はぜひ調べてみてくれ。
また話が逸れてしまった。話を戻そう。
『俺が嫌いな』暇というのは、つまるところ【するをしない】暇である。
たとえば、友達と行列のできる店に並んでいて《あぁ…暇だな。何を話そうかな。そういえば…》みたいなものは暇として捉えていない。
《あぁ…暇だな。》は暇である。
暇と明言しているのに暇でないとはこれ如何に。そう思うだろうか。
俺は何かを生み出そうとする思考の段階に至っていれば、暇と認識しない。
考えている時点で暇ではないだろう。
俺は1日中、脳味噌のキャパを割いて行わない作業をしているときは、必ず何かしらの思考を巡らせている。
あの曲はどうしよう、だとか。あの歌詞はここを変えよう、だとか。企画配信はどんなものがいいだろう、だとか。
たとえば、このブログはどう書いたら面白くなるだろう、だとか。
なので、「ん~わりとボーっとする時間多いかな」という友達の言葉が信じられなかったりする。
そんな時間、睡眠欲に負けたとき以外あり得るのかと。
屁理屈こきと罵るかい?
まぁそれも良いだろう。そういう意見の食い違い、考え方の多様性が人の面白いところで、俺が好きな部分である。
とりあえず、今これを書いている段階で、『俺が嫌いな』暇について思ったことは以上。
意外と話が長くなってしまった。
『俺が嫌いな』無駄については、またいずれ語るとしよう。
それではみなさん。
わたくしは少しお暇を頂きます。